深山の秋は、瞬く間に過ぎてゆく。
真夏の陽光を貪るように生い茂っていた木々は葉を染め、生気を凝縮するかのように一時の実りをもたらす。
厳しい冬を迎える前に、野の獣たちは豊穣の宴を謳歌する。
年々歳々繰り返されてきた、季節の移ろい。
何も変わらないはずだった。そう、その時までは。
近くの集落に住む少女が、野山を分け入ってきたのは、ほんの偶然だった。
とっておきの穴場だった野いちごの藪が、どうやら今年は何者かに先を越されたらしいのだ。
少女が大切にしていた秘密の果樹園は、猪にでも荒らされたのか、無惨に食い散らかされていた。
ひとしきり癇癪を起こした彼女は、いつもは足を踏み入れることのない山奥にまで、新たな穴場を探し求めていた。
「山奥さぁ、バケモノが出るけぇ、入っちゃ駄目だぁ」
お題目のように両親に言い聞かされていた注意を、微かに心中で思い起こしつつも、少女は足を止めなかった。
どうせ、子供だましの嘘に決まっている。もう迷信を怖がるような歳じゃない。
ざわざわという木擦れの音に軽く身震いしながらも、自分に言い聞かせるように歩調を強める。
殊更乱暴に彼女が一歩を踏み出した瞬間だった。
ふしゅるぅぅ・・・という呻きと、濃い獣臭が少女の首筋に絡みつく。
動転のあまり前方につんのめり、落葉の中を這いずるようにして振り返った彼女が見たモノは、大人ほどの身の丈がある巨大な猪だった。
否、只の猪ではない。
猪ならば、なぜその下半身が昆虫のような甲殻に覆われているのか。
野の獣ならば、なぜ狂気に染まった眼を血走らせているのか。
なぜ、なぜ、何故?
この世ならざる存在を理解することは、彼女には不可能だった。
ただ明確にわかる事は、眼前の妖獣が小枝を踏み折るよりも簡単に、己の命を掻き消す事が出来るという事。
そして、彼女の本能は残酷なまでに、獣から剥き出しの「殺意」を感じ取っていた。
絶望。まさに絶望の二文字でしか表す事の出来ない状況。
だが、彼女の心は、それをすんなりと受け入れられる程には達観していない。
まだやりたい事はたくさんある。
クリスマスには、念願だった自転車を買って貰えるのだ。
お正月には、従兄弟たちが遊びに来る。都会暮らしを自慢されるのが癪に障るが、今年は雪だるまを作ると約束したのだ。
それから、春には進学して。
大きくなったら、街に出て・・・。あれ、これって走馬燈っていうヤツ?
混乱する思いの中、彼女はただ一途に純粋に祈る。
誰か・・・助けてっ!
苦痛に身悶えするように身体を打ち振るわせた妖獣が、少女に鼻先を向けたその刹那だった。
最初は微かな響き、だが確実に近づいてくる力強い雄叫び。
猪の半身と蟻の半身を併せ持ったこの世ならざる化け物をも、怯え竦ませる。
そして、一陣の赤い旋風が、轟音と共に舞い降りる。
木の葉を吹き飛ばし、妖獣の前に立ち塞がるは、藍色の髪と赤いマフラーを風にたなびかせる一人の青年。
「長きにわたる封印を超えて・・・」
燃えさかる炎の如き両眼が、比類無き意思の力と共に見開かれる。
「助けを叫ぶ願いに応え・・・」
振りかざした両の拳に、紅蓮の火焔が大輪の花の如く噴き上がる。
「赤腕赤手、七種燈迩。求めに応じ、只今参上! 」
高らかに名乗りを上げた偉丈夫は、真紅を纏った拳を獣に振り下ろす。
何の衒いも技術もない、だが渾身の力が込められた一撃。
浄火の炎は、薄紙を燃やすかのように容易く、妖獣の呪われた思念を無へと解放してゆく。
ふぅと一息をついた青年―七種燈迩は、彼の背後で震えている少女を振り返った。
その顔には、つい先ほど妖獣を屠った男とは思えない、人懐こい笑みが浮かんでいる。
人好きのする爽やかな男だ。
「お嬢さんが、俺を呼んでくれたのか」
そう言うと、燈迩は少女に手をのばし、にっと笑った。
「立てるかい、もう安心していいよ。・・・さて、それはともかく何年くらい眠ってたのかな」
独りごちる燈迩だが、少女は硬直したままだ。
「安心・・・といっても無理もないか。大丈夫、俺がついてるよ」
少女の心を解きほぐそうと、燈迩は一歩踏み出す。
そのとき、少女の口から絶叫がほとばしった。
「変態ーっ!! 変態! 変態! へーんーたーいー!!!」
真っ赤なマフラーだけを身に纏い仁王立ちする、燈迩の精悍な肉体から必死で目を背け、その場から駆け出す少女。
七種燈迩、700年の眠りから目覚める。
特製のマフラー以外の衣服は、そのとき跡形もなく朽ちていた。
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